宇布乃園の歩み

カテゴリー │あゆみ

宇布乃園の歩み

<茶壺>


宇布乃園の歩み

<はかり・分銅>


宇布乃園の歩み

<石臼(いしうす)>


<明治時代の茶手揉み番付>

宇布乃園の歩み

※「宇布見村 徳次郎」
 徳さんは、手揉みがとっても上手なお茶師さんだそうです。

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※「宇布見村 藤吉」
 藤吉じいさんも自ら揉んでいたそうです。


宇布乃園の歩み

<はかり・昭和まで使用>


「ヤマトうぶのえん」 をご紹介をします。
初代は、江戸時代 安政生まれの 和久田藤吉 (トウキチ)です。 藤吉の子ども時代に明治維新があり、世の中が目まぐるしく変化していきました。
遠江国(遠州地域)では、江戸時代から綿織物が盛んだったため、当初は、藍染めをした糸を「織や」(自宅で機織りをする女性)に出して織ってもらった反物を販売していました。そのころ、輸出向けとして好調だった茶業に転換しました。 藤吉の”ト”をとって屋号を「ヤマト」としました
当時は機械がないため、手摘みの茶葉を買い取り、 茶師(茶手揉み師)を雇い、製茶した茶を販売していました。 明治20年頃には、手揉みの番付に載るほど 高品質のお茶づくりに情熱を注いできました。
(当時使用していた竿秤・茶壺などをお店に飾っています。)
晩年には、浄瑠璃をたのしんでいたそうで、台本が残っています。

二代目・和久田筆次郎の時には、東京に支店を構えていました。
筆次郎は、武道をたしなみ、剣道・弓道の写真が残っています。
遺品として、弓筒・弓があります。

三代目・和久田藤一の時、太平洋戦争の戦禍により、東京支店はなくなってしまいました。
さらに、自宅の敷地に作った防空壕に大切な書類をしまっておいたところ、大雨で水浸しになり、 創業当時の記録がわからなくなってしまいました。
戦争で食べるものがなくなった茶農家は、茶畑を芋畑に変えてしまい、茶葉が仕入れられなくなってしまいました。
とにかく当時は、だれもが生きるのに精一杯だったのでしょう。
鰹節やしらす干しなどを背負って汽車に乗り、 茶処 川根へ行って茶葉と交換してくれるところを探し歩いたそう。

昭和30年代半ば、四代目・和久田博は、藤枝市に茶業の修行に行きました。
そこで出会った 仲間たちと良いご縁ができました。
その後、こだわりのお茶を作っている 問屋さん・茶農家さんから、仕入れて販売する小売店(日本茶専門店)を営んでいます。

令和6年1月より、「お茶が大好きお茶子」こと松本陽子(和久田博の娘)が五代目となりました。
初代からの想いを受け継ぎ、「心にのこる忘れられない味」をモットーに、日本茶の魅力をより多くの方に伝えていきます。

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